太閤・秀吉公 尾張・美濃史跡めぐり(その1)

太閤・秀吉公 尾張・美濃史跡めぐりをご訪問下さいまして有難うございます。


豊国神社拝殿前で撮影。


日之宮神社。
中村区日吉公園の一角にあります。 日之宮神社


日之宮神社社殿の東隣に建っています。日吉丸(後の豊臣秀吉)の生母祈願の跡の記念碑。
左の石碑は地元の古老によると生母は日吉丸の素行を懸念して祈願したという。


下記の銅像から東へ100メートルのところに秀吉誕生の地常泉寺が
あります。「豊太閤御誕地」の石碑(左)と秀吉産湯の井戸(右)が
あります。なお誕生地については現在の中村中町(南へ約800メート
ル)とする説があります。


豊国神社に隣接する豊臣秀吉誕生地。
リンク:名古屋市秀吉清正記念館 特別展示室


中村公園と園内の日吉丸と仲間たちの銅像。


光明寺
。太閤記には「秀吉公(1536年〜1598年)幼稚の時、光明寺にて手習いせられよし・・」
とあり、佳境遊覧には當山の事であると記されている。また、後鑑という書物には「応永三十二年
(1425年)十二月、前将軍足利義持公、尾張光明寺を祈願寺と為す」とも記載されている。しかし
ながら現在、寺歴の焼失によりその真実を知る由がない(光明寺由緒より)。 リンク:光明寺
光明寺


加藤清正誕生地。
秀吉誕生地から約150m、東南です。

小出秀政出生地
上記妙行寺の西北約80メートルの公園内にあり、
更に80メートル西北へ行くと秀吉の生誕地があり、
常泉寺の隣に甥の木下勝俊がおり
4人が約200メートル内に生まれた。


薬師寺(左)。古書に、豊臣秀吉が小田原征伐の帰路この村に立ち寄って古老達と語り合ったとき、
この薬師仏を拝まれた、とあります。本尊薬師如来は尼僧一代一会の開扉の他は秘仏とされて
います。明治6年、中村小学校の前身である「小学銀杏学校」がこの寺に置かれ、今も当時の
手洗鉢が残されています。
右は正賢寺。真宗大谷派。山号は亀頭山、本尊は阿弥陀如来像。「尾張徇行記」にも記されている。
正賢寺命日帳に第三世教秀とあり、「母は秀吉公の娘(あね)」とある。欄間の彫刻は江戸時代のまま
保存されており、見事である。以上中村区役所説明引用。 正賢寺


石神社の南西にある押木田公園,その一角にある下中八幡宮。由緒記には「元来この地は
往時東海、東山両道の要衝にあたり・・・・・」記されている。
下中八幡宮。由緒記拡大 下中八幡宮


太閤出世稲荷。
太閤秀吉幼い頃、母に手を引かれお参りされたとの言い伝えから「太閤出世稲荷」
と古くから立身出世、商売繁盛のお稲荷さまとお参りが絶えません。東へ入る。

豊臣秀吉母宅址
豊臣秀吉母宅址
駅から南へ約400メートルのところにあります。道角のこじん
まりした空き地となっています。御器所3丁目にありますが駅はこの荒畑が便利です
秀吉関連、秀吉の誕生地秀吉関連、大政所が男子が授かるよう日参した日の宮神社


信長、秀吉が仲良く遊んだ
史跡モニュメント。名古屋生まれの信長が大将となり すぐ近くの
児玉の丹羽長秀、2キロ上流比良の佐々成政、 荒子の前田利家、1キロ強南の中村の秀吉
など少年時代のガキ大将の群れがこの付近を暴れまわり、闘争心を学び平手政秀の諌言死
を境に一大奮起し、全国へ出世して行った姿は400年経ったいまも何か心がわくわくして
きます。そして彼らを支えた「ねね」は地元「まつ」2キロ圏内(七宝村) 吉乃(信長の
側室、信忠・信雄・徳姫(見星院)の母)も市郊外
で生まれた。更にまつの同郷には蜂須賀小六
福島正則も生まれ戦国武将が多く輩出しました。出世街道美濃路に誇りあれ。


2017.10.9日の同場所の写真です。この付近は改修工事が行われています。


信長、秀吉が仲良く遊んだ現在の枇杷島河原。 庄内川、枇杷島河原 豊臣秀吉誕生地


歴史書によればねねの出生地は尾張の国清洲の朝日村と書かれた
ものが多い。そこで朝日村の厳島神社を尋ねた。由緒によれば2000
年前の石器、弥生時代の遺品が発掘された朝日遺跡(村全体の7割
が発掘対象といわれる、愛知県史跡、貝殻山貝塚公園)の近くに
あります。犬と散歩の古老にねねの生まれを尋ねたが知らないとい
う。家は代代信長の小姓の子孫で,見ず知らずの私に後で代代伝わる
仏壇を見てくれという。後日姓だけ聞いていたので近くのおばさん
に尋ねたらこの辺は皆猪子の姓ばかりで名前を聞かなければ判らな
いという。折りをみてもう一度行きたい。 厳島神社


愛知県図書館蔵書
「尾張史跡」をコピー拡大したものです。 10年ぶりやっと確認できました。


清洲山王社の日吉神社(清洲城南約700メートル)の案内によれば
秀吉公は出生不明とし、清洲町朝日在住の母が当社祈願で授けられた
神の子であり幼名を日吉丸と名付けた。当神社の神の使い日吉猿に似て
いたとも伝えられています。秀吉夫人ねねも深く当神社を崇敬され、三
十六歌仙額、垣根、神宮寺の薬師堂などの寄進をされたとあります。
リンク:日吉神社


日吉神社境内にあります。 日吉神社


日吉神社にある古い西春日井郡伝説集には
写真のような記述がありました。 日吉神社


光明寺。
豊臣秀吉が8歳から10歳まで預けられたといわれる。 光明寺


左上:「ねねの水」と井戸。右上は公園入り口付近。下2枚は碑文と裏面の説明書。


史跡浅野家屋敷跡は現在浅野公園(愛知県一宮市南部)となっています。
北政所ねねはここ浅野長勝家に養女として預けられ、後に木下藤吉郎
(後の豊臣秀吉)に嫁ぐ。最寄りの上小田井駅から北へ約12キロ、
電車の便はJR一宮駅から東へ約3キロ。親しかったおまつはこちらへ
秀吉の母(なか)大政所の居宅跡


浅野長勝屋敷跡(左)。浅野又右衛門長勝の屋敷跡と伝えられ、浅野長政は長勝の婿養子、
豊臣秀吉の妻ねねも長勝の養女です。右は屋敷内角にある石碑(左写真黄色の矢印)。
関連リンク:東海道五十三次、名古屋で生まれた秀吉・ねねを偲ぶ旅


五条川・大手橋から見る清洲城。右は対岸古城址から見る清洲城。清洲城特集


五条橋の東詰めポケットパークに建っています。


五条橋。清洲越(慶長15年、1610年より行われた町ぐるみの引越しをいう)。


御園神明社由緒。
大政所(秀吉の母)が社殿を寄進したと伝わります。 御園神明社


霊松寺。
このお寺の門前には浅野長政公誕生地の石碑(中)が立っています。 安井重継の子
として生まれた。 関連:安井城・山神社。リンク:霊松寺 浅野長政


堀田家住宅。
幼い頃の秀吉が堀田番頭家に奉公したといわれます。

太閤まつりと日吉丸時代

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太閤・秀吉公さま 史跡めぐり(近江・長浜城)
太閤・秀吉公さま史跡めぐり(聚楽第跡,市内特集)
太閤・秀吉公さま史跡めぐり(最終:京都〜大坂城)

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