信長誕生から岐阜城まで(その1)


名鉄津島線勝幡駅前銅像。


名古屋城二の丸庭園内(中区)にあります。織田信長はここで誕生しました。 海部郡勝幡城の説もある。


名鉄津島線勝幡駅(左、愛西市)前の銅像(中)と説明板。


織田信長の誕生地とされる勝幡城跡(稲沢市)。近年になり名古屋城内の説より勝幡城説が 有力と
なっているようです。関連:尾張国府・稲沢市 勝幡城跡 リンク:勝幡城跡 勝幡城跡


織田弾正古城碑。嫁振橋と小津橋のほぼ中間、日光川堤防下にあり、愛西市となっています
織田弾正古城碑 勝幡城跡


池田恒利の屋敷跡。
妻の養徳院は織田信長の乳母でした。 関連リンク:大垣城主・池田恒興


凌雲寺。駅から西1.6キロ新大正橋すぐ東にあります。本堂の前に織田信長が子どもの頃、
手習いで真っ黒になった草紙を枝に掛けて附近の子どもたちと遊んだという、信長草紙掛の松
があり、石碑が建っています。中村区役所説明文引用。


右:滝之寺:天台宗、山号は圓融山(えんゆうざん)。大永から永禄年間(1521から1570)頃、連歌師による
「滝之坊興行」で知られる。織田信長が幼時、この寺で手習いをしたといわれる。左:青衾神社(あおぶ
すま)、祭神:天道日女命 、仲秋の名月には青衾社祭 が行われます。 滝之寺/青衾神社


写真右は万松寺の本堂(地下1階、地上5階)、左は本堂横にある織田信秀公の廟所
詳しくは下段のリンクをご覧下さい


大須を歩けば観音様と万松寺(ばんしょうじ,写真上)を抜きでは語れない。尾張一円を領していた
古渡城主織田信秀(信長の父)が織田家の菩提寺として開基した。ご本尊は十一面観世音菩薩、曹洞
宗本山総持寺の末寺,当時は今の中区錦と丸の内2,3丁にまたがる大殿で中心に七堂伽藍が備わっ
た一大寺院であった。慶長15年名古屋城築城にあたってここに移転した。当時は寺域は2万2千三
百九坪あったが大正元年、時の三十七世和尚がその大部分を開放し大須を名古屋の大繁華街とした。
天文21年3月3日父信秀公の葬儀がここ万松寺で営まれたさい荒馬の袴姿の信長が焼香の時、 鉢香を
位牌に投げつけた逸話は
有名です。また天文16年(1547年)三河の松平竹千代(のちの徳川 家康
公)が6歳から2年間万松寺で暮らしたことがある。 (万松寺の歴史より抜粋)平成12年5月11日写す。


稲生が原古戦場跡。織田信長と信行が戦った稲生が原の古戦場跡(庚申塚)である。
この戦の霊を祭ったと言われる。信長がこの合戦に勝利し、(前田利家19歳は、この
合戦で手柄をたて槍の又左の異名を取る)尾張統一に向け大きく踏み出した。又この戦
柴田勝家は信長に負け以後信長に心酔する。末盛城桶狭間の合戦の4年前の ことで
ある。 稲生が原古戦場跡


末盛城跡。稲生が原の戦 信長関連、古渡城跡信長関連、岩倉城跡 末盛城跡


末盛城跡の土塁。室町時代末期平山城として原型に近い形で残されています。県内の貴重な史跡です。


生駒氏の邸址(右)。久昌寺(左)。 生駒氏の邸址


日吉丸(後の豊臣秀吉)と三河・矢作橋で蜂須賀小六と出会いの定説は塗り替える・・・・・。


吉乃(信長の側室)をまつる久昌寺、信長は夭折した吉乃を偲んで小牧城から
久昌寺の方向(北西へ約3キロ)を眺めて涙を浮べていたという。信長32歳、
吉乃29歳でした。愛知県江南市小折町にあります。名鉄犬山線布袋
駅下車が便利です。 久昌寺 関連リンク:土田城址


久昌寺境内生駒家代々のお墓(左、右端が吉乃のお墓)。吉乃のお墓(中)拡大。右は久昌寺。
生駒屋敷跡


吉乃御殿跡。 吉乃御殿跡


吉乃桜。 吉乃桜


ハイビジョン映像:清洲城と五条川のさくら


史跡コース清洲城(織田信長の居城)上小田井駅から西へ約3キロ余り,五条川を挟んで
東側に新しい清洲城(写真左)、西側に清洲城跡(写真右)があります。


天守閣の展望,左は五条川を挟んで見える清洲城跡、右は名古屋市方面


展示場面は桶狭間出陣 を前に信長公が胸中に決死の覚悟を
秘めて謡曲「敦盛」を舞うシーンです。左は濃姫
言上するは柴田勝家、出陣の折り日置神社
に必勝祈願をし、勇躍桶狭間に向かったといわれる。


1577年森秀光の守る方岡城を攻めた時細川忠興(青年時代)兄弟
(15歳と13歳)で一番乗りの目覚しい手柄を立てた時「比類なきもの」
として与えた直筆の感状である。


城内展示品の一部です。


清州城の入り口の案内


はねばし南西約100m。大脇公民館前。織田信長の生母・土田御前が生まれたとも
記されています。関連リンク:生駒屋敷・小折城址 土田城跡


東別院境内西南角にある古渡城跡である。


聖徳寺は廃寺となり:名古屋・八事へ移転された。 重厚で風格のある山門は
岩塚宿光圓寺に移転されています。 織田信長と斉藤道三が会見の説明板


平手政秀邸址。
人間、人生の最高の「死」をもって諌言するという・・・・、信長自身も
「じいつ・・・・」と言ったまま政秀の遺体にすがり長く長く号泣したものと思われます
その3年半後稲生の合戦で、危うく平手政秀が心痛した不穏な謀反にあい、難を逃れ以後
天下取りに突き進んだスタート原点では、平手政秀の崇高な死が無ければ・・・・と思う
由縁です。信長は霊を弔う為中区大須に政秀寺を建立した。平手政秀邸址や稲生の合戦
場の近くに住む者として忘れることが出来ない重要な史跡であります。
平手政秀邸址


平手政秀邸址に建つ2本の説明立て札。
西志賀城(北区平手町二丁目、志賀公園)は、築城年月日や城主など一切不明ですが、
平手政秀邸址と伝わる辺りが政秀の城と考えられています。江戸時代には堀があったと
もいう。

地下鉄沿線でしのぶ若き日の信長ものがたりbgm付き


清浄寺。尾張六地蔵・清浄寺 清浄寺・矢場地蔵尊


史跡コース矢場町駅から西へ約350メートル、若宮通り沿い
(100m道路)の北側にある政秀寺です。平手政秀を弔うため建立しものです。
墓は千種区平和公園の政秀寺 墓域に移転された。平手政秀宅跡

岐阜城 吉乃(信長の側室)の生駒屋敷址 平手政秀 那古野城跡

清洲城 古渡城 末森城 万松寺 家臣、佐々成政 重臣、丹羽長秀 重臣、柴田勝家 重臣、滝川一益


織田信秀の菩提寺として三男信行(下段の末森城参照)が建立した。織田信秀五輪の塔(左)と桃巌寺山門。


1558年7月12日討ち死にした戦没者900余名を数えたといわれ
山内一豊の兄十郎もこの戦さで討ち死にしたと言われる(黒田城東南約7キロ
一宮市千秋町浮野にあります。


「桶狭間の戦い」までのもの 関連:平手政秀の邸址

山内一豊特集その1(織田信長関連) 山内一豊特集その2(織田信長関連)

関連:桶狭間古戦場特集(その1) 桶狭間古戦場特集(その2) 桶狭間古戦場特集(その3)
桶狭間古戦場特集(その4)

地下鉄で巡る・若き日の信長物語

信長誕生から岐阜城まで(その1) 信長誕生から岐阜城まで(その2) 信長誕生から岐阜城まで(その3)

信長誕生から岐阜城まで(その4) 信長誕生から岐阜城まで(その5) 信長誕生から岐阜城まで(その6)

信長誕生から岐阜城まで(その7) 信長誕生から岐阜城まで(その8)

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